ACHIEVEMENT実績・OB紹介

[つくる] 日本映画の
若きエースたち!!
深川栄洋 vs. 森義隆

NCWクリエイティブセミナー2012 spring 「映画監督をめざそう!」【採録】

2012年5月、東宝全国系公開されヒットした2本の映画『宇宙兄弟』と『ガール』。実はその監督、森義隆さんと深川栄洋さんは共にNCWOBでした。
この春15周年を迎えたNCWが、今の日本映画界を背負って立つ存在へと成長した2人を迎え、NCWに入るきっかけから最新作の話まで、たっぷり3時間語ってもらった「クリセミ」を完全採録しました。ここでしか聞けない話が満載です。

[聞き手:武藤起一(NCW主宰)、露木栄司(NCWクリエイターコースディレクター)]

たまたま監督をしたら楽しかったんです。

――
深川監督はニューシネマワークショップ(以下NCW)に入る前に、映画の専門学校に通ってたんですよね。
深川:
はい、東京ビジュアルアーツという専門学校にいました。ビジュアルアーツに18歳で入ったときは、漠然と映画の仕事をやりたいけど、多分録音部くらいがいいのかなと思ってました。監督とかプロデューサーとかにはなれないだろうなと。
――
それは自分が、そこまで才能がないだろうということですか。
深川:
自分の技量がどこまであるのかわからなかったですね。ただ漠然と、映画の現場だったら毎日ドキドキワクワクできるのかなと思って映画を選んでいて。そこの卒業制作でたまたま監督をすることになって、その時が楽しかったんです。でも監督は何となく無理そうだから、脚本だったら地道に努力すれば出来るかなと思って、卒業後1年間脚本の勉強をしてたんですけど、やっぱり映画をつくりたくなっちゃって、もう一回監督をしたいと。その時、NCWのチラシを映画館で見たんですね。それに「トータルプロデュース」と書いてあって。映画をつくるだけじゃなく、それを観客に観せなきゃいけないんだという。新しい価値観を感じて、それを知りたいなぁと思って入ったんです。
――
「プロの監督になるぞー!」というより、とにかくもっと映画をつくりたいということですか。
深川:
諦められなかったんですね、面白くて。
――
ビジュアルアーツでつくったのは、「全力ボンバイエ!」という作品ですよね。これは賞を獲ったんですよね。
深川:
はい。水戸短編映像祭の水戸市長賞を獲りました。

深川栄洋監督

――
森監督はまた違った経緯ですよね。確か大学で演劇をやっていたんですよね。
森:
俳優ですね。高校では野球をやっていて。で、高校野球が終わってしまって、何か人前に出るのが好きな少年だったので。
――
目立ちたがり屋?
森:
そうですね。今は違うんですけど、当時は前に出たくてしょうがなくて。で、俳優をやってみようと。ちょうど受験生時代に見た演劇に感銘を受けて。それで、早稲田大学の劇団に入って。こういう見てくれなので、三の線の名優としてならしたんですけど(笑)。でも俳優を一年間やっていて、先輩の演出がちょっと気にくわなくて。僕の使い方がわかってないと(笑)。
――
生意気だった?
森:
生意気でした。それで、自分で脚本書いて演出しようと。自分で主演とかもやっちゃって、クリント・イーストウッドばりの(笑)。そこから演劇の演出を3本やりました。でも大学の劇団の物足りなさというのがあって、同級生たちと反目してしまって、俺が出て行くみたいな話になっちゃいました。出て行くと、今度はやることがなくなってしまったんです。そしたら「トータルプロデュース」と書いてあるチラシを見つけて、なんだこの胡散臭いチラシはと思って(笑)。でも近所じゃないかと。大学から近かったので映画をやってみようと思って、流転の末にニューシネマワークショップに来ました。映画に逃げてきたというか。
――
逃げてきたというのは、それ以前はあまり映画に興味はなかったんですか。
森:
やっぱり演じてみたいということからスタートしたので、映画好きということではなかったですね。演劇の演出をし始めてから、その当時流行っていたような、ダニー・ボイル(「トレイン・スポッティング」監督)とか、あの辺のものはチェックしていましたが、昔の映画とかをいっぱい見ているタイプではなかったです。

森義隆監督

各々の個性を出させることが役者を光らせることなんだ。

――
NCWの実習作品として、深川監督は「ジャイアントナキムシ」という55分の作品と、森監督は「畳の桃源郷」という30分弱の作品を撮りました。「畳の桃源郷」は、6畳間に男3人で暮らしていて、そこに元カノがやってきて、空気が変わり始めるという話ですよね。
森:
僕の大学時代の暮らしの話ですね。
――
「畳の桃源郷」も演劇的なシチュエーションですよね。この題材を映画にしたいという思いがあったんですか。
森:
それがまだ捉えられていなくて。「畳の桃源郷」で演劇的なことをやってみて、カメラって外に出れるんだからと思って、次にインドに映画を撮りに行ったんですね。
――
初めて撮ってみたら、映画はもっと自由じゃないかと。
森:
そうでうね。実際やってみて、これは演劇と違うメディアだなぁと思ったときに極端な方に振っちゃって、インドに行っちゃったっていう感じですね。

畳の桃源郷

――
深川監督の「ジャイアントナキムシ」は2作目になるわけですが、これはある種の群像劇と言えると思いますが、単純に説明できないですね。
深川:
そうですね。「全力ボンバイエ!」の時に水戸の審査員だった篠原哲雄監督が「この作品は勢いだけだ。君が30歳になった時にこれと同じ勢いを持っているとは思えない」とおっしゃられて、悔しくて。じゃぁ勢いを封じ込めて普通のテレビドラマのような物語をつくってやろうと思って作ったのがこれだったんですけど。全然違いましたね。
――
最後に血みどろのシーンがあって、自分で自分のあそこを切り取るっていう。あれは衝撃的でよく覚えてますが。
深川:
あの芝居をしている時、なかなか切れなくて。そういうお芝居が観客にどう見えるかというのを勉強した気がしましたね。気持ちよく切れちゃうとお客さんも気持ちよく見れちゃうけど、なかなか切れなくて痛くてという描写をしばらく頑張ってやっていると、その痛みや嫌悪感もお客さんに伝わるんだということが、この映画でわかりました。
――
それはある意味、演出のキモみたいなものじゃないですかね。役者をどう動かすかという演出のキモの部分で、パワーだけと言われた「全力ボンバイエ!」と「ジャイアントナキムシ」では、何か変わってきたことがあるんじゃないですか。
深川:
この一本の映画の中に同じ個性を持った登場人物は要らないんだなって撮影中にわかりました。各々の個性を出させることが役者を光らせることなんだなって、そういうことを覚えていったんです。
――
やっぱり役者は大事なんだなと気づいたということですね。それが「ガール」にも繋がっているような気がします。これも群像劇ですもんね。深川監督は結構群像劇が多いですよね。逆に森監督は、男2人の主人公というのが…。
森:
女が撮れないというか(笑)。振り返れば男ばっかりという…。でも根っこは最初と変わらないのかなぁと思いますね。自主映画って役者を選んでいる場合じゃない。言い方は悪いけど、近くで調達した役者さんにどれだけ説得力を持たせられるか、その人自体が持っている資質をどれだけ生かしてあげられるかっていうことをすごく考えてましたね。実は今も同じスタンスで、小栗旬くんとやっても当時の演出の考え方とあんまり変わってないですね。
――
役者が有名だろうが、無名だろうが関係ないと。深川監督は「ジャイアントナキムシ」を撮り終わった後「やるならやっぱり監督だ!」と思いましたか。
深川:
撮り終わった時は、やるなら監督か、もしくはプロデューサーかなぁって思いました。自主映画をつくっていく中では、プロデューサーと監督の作業って割と似ているというか、同じなんですよね。現場でやる事は違うけど、監督もお金を集めたり、どうやって公開するのかというのを考えていくので、同じような頭を使うと思うんです。
――
深川監督は、NCWを卒業した後にまた映画を撮りましたね。それが「自転車とハイヒール」。60分くらいの作品で、NCWの露木ディレクターがプロデューサーとして入った…。
深川:
そうですね。ダメだったんで、もう1回チャレンジしたかったんですね。
――
それは「ジャイアントナキムシ」がPFFで入選はしたけど賞は獲れなかったということで、今度は賞を獲ろうということですか。
深川:
そうです。今度は賞を獲って、スカラシップを獲って、デビューしてやろうと思ってたんです。
――
それが一番手っとり早い方法だから。それで次はこれで勝負だ!みたいな感じで。今度は自主製作ですよね。
深川:
自主製作の形なんですが、今度は技術を持った人も含めて、携わる人数を増やさなきゃいけないなと。「ジャイアントナキムシ」はスタッフ3~4人でやっていたので、限界を感じて。人を集めたいと思って露木さんに脚本を見せたら「面白いね、一緒にやろうか」と言っていただいて。それまで、監督&プロデューサー、それにカメラマンもやっていたんですけど、これで監督だけに専念できるようになったというのが違うところですね。
――
これは子供が生き生きと描かれているのがすごく印象に残っています。
深川:
その頃、仲間の自主映画とかPFFとか見ていた時に、子供ってあまり出てこないなと思って。じゃあ、僕が子供の演出をちゃんとできたら、プロフェッショナルな人たちを驚かせられるんじゃないかなと思ったんです。それで、僕が子供の頃のことをよく覚えていたので、子供を使って物語をつくってみようと思ってやったのが「自転車とハイヒール」です。それが後々、「狼少女」という映画につながっていくんですが。

「ジャイアントナキムシ」

どこまでもフィクションよりノンフィクションの方が面白い。

――
森監督は「畳の桃源郷」の後にインドに行ったという話がありましたが、インドに行って映画を撮ったんですよね。
森:
撮りました。「畳の桃源郷」も水戸短編映像祭で審査員奨励賞を貰ったんですけど、やっぱり映画祭で賞を獲らないとダメなんだなぁと思いました。それで、コンペの中で目立つ映画はなんだろうと考えて、インドに行ってる映画はないだろうと(笑)。それから、まず自分のカメラを手にしようと思って、ワーッとバイトして、150万円くらい貯めました。
――
インドへは何人で行ったんですか。
森:
僕と役者の男女2人の3人で行きました。まず、ロケハンと称して僕だけ1か月先乗りして。その時出会ったフランス人のエリックと2人でドミトリーをシェアしながら1週間くらい一緒に遊んでたんですよ。結構、友情とか芽生えて。そしたらそいつが、カメラからパスポートからお金から全部持ち逃げしたんです。本当に何もなくなって、大変な思いをしてようやく首都まで戻ってきました。そしたらそこで、同じ大学の人(日本人)を見つけて。彼がビデオカメラを持っていたんですよ。それで「これを貸してくれ!」って。それから役者を呼びました。
――
お金もなくなったんでしょ?
森:
親から借りて送金してもらいました。盗られたのがトラベラーズチェックだったんで復活できたんです。それで2ヶ月くらいかけて撮ったんです。男女のロードムービーですね。出会って、別れてという。
――
インドで映画を撮って何か悟りましたか。
森:
一番印象に残っているのは、エリックに全部盗まれた後、バス停を探したんです。それで、道に座っている乞食みたいな人に「Where is a bus stop?」って聞いたら、志村けんの物真似をして「だっふんだ!」って言うんです。インドでは、日本人のバックパッカーがふざけた日本のギャグを現地の人に教えたりするんですよ。要するに、そいつはそれしか日本語を知らなくて。その時「あぁ世の中は不条理だ」と思うと同時に、「どこまでもフィクションよりノンフィクションの方が面白い」と思ったんですよ。そういうセリフは絶対書けない…。
深川:
「だっふんだ!」からドキュメンタリーに?
森:
「だっふんだ!」からのテレビマンユニオンですよね(笑)。
――
卒業して、テレビマンユニオンに入るわけですけど、テレビマンユニオンと言えばドキュメンタリーという。
森:
映画には魅了されていたんですけど、それこそPFFとかは割と作風の強い、エッジが立ったタイプの人が評価されている気がして。僕は当時から王道のストーリーしか書けなかったし、個性的と言われなかったんで、そういうところでは賞が獲れないなと思ったんです。賞レースからは監督にはなれないなと悟ったんですよ。それで組織に入ってみようと思ったのは、ユニオンという組織自体が株式会社という体はとっているんですけど、人事権が全くないフリーのディレクターの集団で、月給もなければ、出来高でやるっていう。これは不自由にはならないなと思った時にここでやってみようと。
――
これからはテレビで、ドキュメンタリーでやっていこうと。
森:
念頭には実は映画があって、いつかはと思っていたんですけど。まずはテレビをやってみようと、ADから始めましたね。

3回くらい、死にたいと思いました。

――
そうこうしているうちに、深川監督は2005年に「狼少女」で劇場長編デビューを果たすわけですが、「自転車とハイヒール」から3年ぐらいということで、早いといえば早いですね。「狼少女」にたどり着いたのは、何が一番のポイントだったんでしょう。
深川:
その前に、函館港イルミナシオン映画祭という映画祭のシナリオ大賞で受賞した脚本の映画化をNCWが依頼されて、僕が「自転少年」という短編を撮ることになったんです。そのプロセスの中で「自転車とハイヒール」を非常に評価して頂いたという経緯があるんですね。後に、同じ映画祭の長編映画の企画で「狼少女」が出て来て、「自転少年」と「自転車とハイヒール」を見ている方が「深川に撮らせたい」ということで。
――
「自転車とハイヒール」という作品が大きなポイントになっているんですね。それで「狼少女」は脚本がすでにありました。人が書いた脚本を撮ることになって、自信はありましたか。
深川:
子供の話だったので、子供の演出には自信は持ってました。一番気にしていたのは、「狼少女」はプロデューサーから下のスタッフの方まで完璧にプロフェッショナルな中で、僕がひとり入ってどうできるのかってことで…。
――
いわゆる普通の商業映画と同じつくりってことですよね。あの時はまだ20代でしょう。自主映画しか撮ったことのない人がその中にポンと入ってというのは、今までにない経験ですよね。
深川:
その時、それができるかどうかっていうのは正直心配だったし…。初めて死にたいと思いました。3回くらい。
――
3回くらい?
深川:
撮影の最中に。あぁ、こんなに大変なのかと。本当に孤独だなって思いました。監督は孤独だと聞いたことあるけど、本当に孤独で…。
――
監督が孤独だという話はよく聞きますね。だから珍しいことじゃなくて「やっぱりあなたも」みたいな感じではありますが。でも、3回も死にたいというのは…。
深川:
「狼少女」の間に3回。それ以降はないんですけど。
――
それはコミュニケーションが難しいということから来るんですか。
深川:
本当に雛形が何もないので、今進んでいる方向が正しいのかどうかも分からない。ただ、それをスタッフの前では言えないし。プロデューサーと一緒に確認しながらやるんですけど、プロデューサーも自主映画上がりの人とやったことなくて。ただ素晴らしいプロデューサーだったので、一緒にキャッチボールしてくれて、大丈夫だよと投げかけてくれてたんです。でも、家に帰ると、本当に明日が来なければいいのにって感じで、苦しくて…。
――
ちゃんとプロデューサーがコミュニケーションしてくれた訳でしょ。でも家に帰ると「う~ん」ですか。
深川:
この重責がすごいんですよ、肩に乗っかってる。
――
自分にこれだけの責任がかかってるってことが?
深川:
手も足も出なくなるような恐怖感があるんですよ。40~50人のスタッフが関わってるし、3,000万円以上の製作費がかかってるんで。それが自分の双肩にあって、その人たちの生活も仕事のクオリティーも背負わなければならないと思うと…。今までにないプレッシャーを感じました。
――
監督は自分の作品ができるかできないかが全てで、他人の生活のことなんかあまり考えてないような気がするけど…。深川監督は家の仕事(内装屋)も継いできたわけですよね。それで、そういうことが意識としてあるのかもしれませんね。スタッフを食べさせなきゃとかいけないとか。
深川:
そこが多分僕は、ちょっと考え過ぎなんでしょうね。
――
プロデューサーの部分もあるというか。
深川:
ただ考え過ぎなんだと思いますが。例えば自分がつくった映画が興行が失敗して、そのプロデューサーが飛ばされるとか、その会社が立ち行かなくなるとか、ものすごく恐ろしいんですよ。そこに責任を感じてしまうんですね。お仕事受ける時にも、まずそれが自分の中で責任が取れるかどうかってことを考えて選んでますね、今でも。

「狼少女」ポスター

1年かけてつくった番組が「うわっ、空しい!」

――
森監督はそういうふうに感じますか。
森:
僕は逆のタイプですね。死にたいというより、殺してやるって方ですね(笑)。そこが解放されていないと自分らしくいられないんですよ。現場では当然プレッシャーを感じてはいるんですけど、そこはわざと目をつぶっちゃって、知らんぷりしちゃいますね。
――
テレビマンユニオンには何年くらいいました?
森:
この4月に辞めたんですよね。まずADを3年やって、「世界ウルルン滞在記」とか、ひたすら海外の秘境班にされました。ディレクターデビューは4年目だったんですけど、「ガイアの夜明け」の宇宙旅行ビジネスの話でした。テレビマンユニオンというのは、とにかく企画を通せばディレクターになれるという会社なんです。でもなかなか自分の企画で1本ちゃんと番組の責任もってやるまでには至らなくて、ようやく4年目にディレクターになりました。その間、映画ということは全く考えていなくて、とにかく目の前にあるディレクターデビューだと。
――
ディレクターになるしかないと。
森:
そうですね。それでデビューした時に、もちろん取材は面白かったし、色んな事学べたんですけど、初めて自分で責任を負ったものがテレビ東京の火曜10時にポーンと茶の間に流れた時に、それまで劇場という中でお客さんの笑い声を聞いたり涙のすする音を聞いたりしてた熱が、ブラウン管から伝わって来なかったんですね。何かテレビをつくった充実感があるかなと思ってたんですけど、人と繋がれた感じがしなくて。1年かけてつくった番組だったんですけど「うわっ、空しい!」と思っちゃって。僕の場合、ものをつくるってことは人と繋がるツールだと思っていて、コミュニケーションだと思っていて…。
――
最初が演劇だから余計そうでしょう。
森:
もしかしたら自分はブラウン管を通して充足感は得られないかもしれないと痛感して、5年目には映画を撮りたいというところにシフトしていました。でも、自主映画の賞レースからも外れてしまい、組織に一回入ってしまい…。
――
深川監督の場合はホップ・ステップ・ジャンプといった感じでやってきて、それでお声がかかったわけだから。でも森監督はお声がかかりようがない…。
森:
一回捨てているのでかかりようがない。それで、もう一回やり直そうという時にですね。奇遇なのか運命なのかわからないですが、「畳の桃源郷」に主演で出ていた、劇団時代からの同期の永井という男が俳優のマネージャーという仕事をやっていて、彼とある現場で再会したんです。それで、二人で飲んでる時に「映画やろっか?」みたいな話をしたら「やろっか!」ってなって。彼がお金集めてくるよって話になりました。彼は俳優についてあっちこっち行っている中で、人柄とか行動力で信用のおけるパイプをいっぱい持ってたんですよ。とはいえ、プロデューサーの経験もないんで、いきなりお金が集まるわけでもなく、じゃぁまず脚本からやろうってことで、地道に脚本を書き始めました。
――
森監督が脚本を書き始めたという事ですか。
森:
そうです。最初はオリジナルでやろうとしていたんですが、うまくいかなくて。「ひゃくはち」の原作者も当時、飲み仲間というか、スポーツライターをやっていたんですね。それで、実は彼が大学時代から書き貯めていた小説があると。それが「ひゃくはち」だったんです。新人賞を獲らないとなかなか文壇には行けないじゃないですか、でも新人賞って500ページまでしか応募できなくて、それは1000ページくらいの長さになってしまったから、デビューの方法がないというお蔵入り状態になっていて。結局、小説は集英社から出るんですけど、まず集英社に持って行って、映画にするからこれを小説で出版しようとセットで動かしたんですね。
――
これ映画化しますから小説出しましょうよって集英社に持っていったら、OK!ってなったんだ。
森:
振り返ってみれば、高校野球がテーマになったのは自分の中では意外で。実際に高校野球をやっていたんですけど、自分にとっては良い思い出ではなくて…。非常に悪い思い出しか残ってなくて。そこから10年、野球の「や」の字も語って来なかったんですね。もう俺の人生と野球は関係ないと思っていたんですけど、「ひゃくはち」の高校野球の補欠の話っていうのに痛く感銘してしまって。これなら撮れるかも、自分の傷を使えば撮れるかもと思いました。
――
それでお金はプロデューサーが集めてくれたんですか。
森:
結局1年くらいかかったんですね、脚本書き上げるのに。途中で、自分でも書いてて面白くないなと思って、原作のダイジェストみたいになってるんです。そこで、一回原作捨てようっていう話になって。自分の経験した高校野球を書こうってプロデューサーと話し合って、パーッと一気に書き換えたらお金がワッと集まり出したんですね。良い脚本だと。
――
脚本を読んで、これだったらお金出すよって言う人が出てきたということですか。
森:
そうですね。デビューとしては破格の予算で撮れているんですよ。結局、1.2億円かけてるので。
――
1.2億円の製作費の映画って、今で言うと100館以上の公開規模じゃないと成立しないですよね。これ単館公開ですもんね。
深川:
死にたくならなかった?
森:
プレッシャーとかあまり感じなくて。テレビやっていたことも関係あると思うんですけど、「予算足りない!予算足りない!」って言いながらやっていたので。1.2億でも足りないって感じで(笑)。
――
プロデューサーがそこにいたから、監督のことだけやればいいという感じだったんですか。
森:
そうですね。僕はそこはやらないって、彼にすべて任せてましたね。

「ひゃくはち」

本物の高校野球のチームをつくってしまえ!

――
本当に対照的ですね。それで二人ともデビュー作の現場は、自分のやれることをなんとか出来たという感じですか。
深川:
そうですね。自分が最初に脚本を開発している間に、形を想像するわけですよね、立体的に。映画が実際にそうなったのが良かったというか、キャストのお陰だし、スタッフのお陰だなと思いましたね。ただ、監督の苦しみは監督になった人しかわからないので。本当にくだらないことで悩んでしまうし、なんでそんなことでっていうところで止まってしまうんですね。多分この監督という職業特有の、他の職業にはないところですね。
――
森監督は、やっぱり殺してやると思いながらも、納得できる映画になったという感じですか。
森:
そうですね。まず主演の二人は16歳だったんですけど、彼らの息吹を撮るという事に関しては絶対にやるんだと思ってました。あと、本物の高校野球のチームをつくってしまえと。自分が野球の監督をやってしまおうと思ってやる。それで良いチームがつくれたかどうかをスタッフが撮ってくれる。僕は野球チームと彼らの青春をつくればいい。そういうやり方はやれたんじゃないかなという気がします。
――
「狼少女」と「ひゃくはち」という二人のデビュー作、これが失敗していたら多分ここにいないだろうと思いますよね。二人ともいろいろな形で評価を得られ、次のステップに繋がったということですね。
――
そして森監督の2作目が「宇宙兄弟」ですが、この作品のオファーはいつ頃来たんですか。
森:
「ひゃくはち」が終わった半年後くらいに来てましたね。だから、企画の話から完成まで2年半ぐらいですかね。
――
これは東宝の作品ですけど、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの川村元気プロデューサーの企画ですよね。
森:
「ひゃくはち」を見た、ということで会いたいと言ってきたんですよ。それで「面白かったよ」と。その数ヵ月後に「宇宙兄弟」のオファーが来たんです。
――
それで、やりますって言ったわけですか。
森:
そうですね。内容もありだし、同世代のプロデューサーだったし、原作者も編集者もみんな同世代だったんで、これはおもしろいステージになるなっていうのが、一番の決め手で。そこから、原作者と編集者側が、森ならって言ってくれたのが、大きくて。
――
それは「ひゃくはち」を見てくれて、この監督だったらOKと言う事で?
森:
そうです。原作権レースになっているところで、森ならと言ってくれたんですよ。編集者が「ひゃくはち」を観てくれてて、この原作者との掛け算がうまくいくと思ったんですね。
――
原作漫画はその時からすごく売れていたんでしょ。だからみんな取り合いしてた。
森:
ありがたかったのは、「ひゃくはち」の後、東宝のようなメジャーなところからも声をかけて頂いたし、インディペンデントのプロデューサーからも声をかけてもらって。将来的には両方やろうと二つとも引き受けたんですよ。1本の「宇宙兄弟」がやっと公開されて、来年撮るのがもう1本ですね。

メジャーだからこそ映画とちゃんと向き合おうとしてた。

――
「宇宙兄弟」の撮影は去年でしたっけ?
森:
去年の5、6、7月ですね。
――
「ひゃくはち」と題材は全然違うけど、男2人の友達の話だったのが、今度は男2人の兄弟の話で。それも友達みたいな兄弟で、ベースの部分が似てますよね。
森:
そうですね、奇遇ですけど。ポスターも同じようなツーショットでね。自分が31歳の時にこの話を引き受けたんですけど、主人公が同じ31歳で、僕も3歳年下の弟がいて、これと同じ兄弟構造だったんですね。これは、自分の力を発揮できるテーマなんじゃないかなと思えたんです。
――
これを脚本化するのは、原作がすごい長いし(現在17巻)、しかもまだ終わってないから難しいんじゃないかと思うんですが。
森:
編集者がダイジェストにしないでくれと。終わっていないからこそ、今後連載が続く漫画を刺激できるような、映画としての「宇宙兄弟」にしてくれと言ってくれた時に、すごく気持ちが楽になりました。それで1巻の1話がすごく本質的な内容だったんですね。この1巻の1話を長編にしていくんだという発想で捉えた方がネガティブじゃないなと思ったんです。
――
この脚本家は大森美香さん。その作業は、監督と脚本家、あるいはプロデューサーとの間でズムーズに出来たんですか。
森:
まず最初にプロデューサーの男2人と僕だけで、ガーッとプロットを詰めてったんですよ。それで女性の視点が欲しいねって。男のロマンゴリゴリになっていって、出口が見つからなくなった時に、女性も観れる宇宙であって欲しいし、兄弟であって欲しいって時に大森さんにお願いしたら、あなたたちのプロットってワクワクしないって言われて。そこから新しい風が入ってきたという感じですね。
――
大森さんが入って変わっていった部分は受け入れていったんですか。
森:
いろいろありましたね。「女ってわかってねぇなぁ」と、でも向こうも「わかってねぇなぁ」みたいな(笑)。いい意味で健全な衝突ができたと思います。相当、議論はしましたね。
――
それは今までになかった経験なんじゃないですか。
森:
そうですね。脚本家(が入ること)自体がまず初めてでしたね。
――
それで、2本目でいきなりメジャー作品になるわけだけど、自分でもそんなに戸惑わずにスムーズにできたといった感じですか。
森:
ブレなかったとは思ってます。自分のペースは守らせてもらいましたね。それこそ覚悟としては、例えばプロデューサーが、マーケットの理屈でワァーっと僕をつぶしにかかってきたら「いつでも降りてやる!」って思っていたんですよ。でも彼らは、実はメジャーだからこそ映画というものとちゃんと向き合おうとしていて…。
――
それは川村プロデューサーが同年代ということもあって?
森:
そうです。どういう議論をしていたかというと、どっちが映画らしいかとか、どっちが面白いか、どっちの映画を俺たちは観たいんだということだけを健全に話し合えたんで。マーケットみたいな、データみたいなことは一切会話に入ってこなかったですね。

プロデューサーが「そう思っているのは君だけだ!」

――
「ガール」は、今までの深川監督作品の流れとはかなり違うと思ったんですが。主人公は29歳から30代半ばまでの女性4人。それぞれの人生があって、いろんな人たちが絡んでくる群像劇。一体これを、男の深川監督がどう料理するのだろうと思いましたね。
深川:
どう料理しようか悩みましたね。なぜ、僕なんだろうと。でも、基本的には僕に何か期待しているんだろうなと思ったので、今までやらなかったものでオファーをもらったというのは結構嬉しかったんですよね。
――
自分もやったことないから、ちょっとやってみたいなと。
深川:
そうですね。最初は脚本を渡されず、まず原作読まされて。
――
奥田英朗さんの小説で短編集なんですよね、5編ある。その中にある4編を合体させた話ということでしたが。
深川:
原作読んだらすごく静かなオムニバスで、それぞれの女性の話だったんで、整理しやすかったんです。あぁ面白いなと、女の人はこんなことを考えているんだと思って「やります!」という返事をしたんですけど。その後に脚本を読んだら、原作とだいぶ赴きが違うんで…。
――
それは脚本家の篠崎絵里子さんが書いた脚本を読んでということですか。
深川:
そうです。ここはプロデューサーが原作とは違うルックにしようとか、何か狙いがあってそうしてるんだろうなと思って、プロデューサーにお会いしたんですよ。それで、やりたい方向はこっちだと。「SEX and the CITY」みたいな気分で、もうちょっと新しくて、もうちょっと大人も観れるロマンティックコメディにしたいと言われたんです。でも原作とだいぶ違うような気がして。家に帰っても、やっぱり他の人がやった方がプロデューサーが考えているものに投げ込めるんじゃないかなぁと思って。それでもう一回時間をつくって頂いて、「僕じゃないと思うので、申し訳ございませんが降ります」と言ったんです。すると「そう思っているのは君だけだ!」とプロデューサーがおっしゃられて。 この企画を3年くらいかけて実現にもっていったプロデューサーが、「そう思っているのは君だけで、ここにいるプロデューサー陣はそう思っていない。今までの君の作品を見て、これを君にやって欲しいんだ」と。その時にバキュン!と打たれた感じがあって。それで「その言葉を信じます」ということで引き受けたんです。
――
それを信じて良かったと。
深川:
今は、そう思ってますね。とにかく一回決めたことは突っ走ろうと思ってる人間なんで、「わかりました。やります」となった後は、今まで自分がやってきたキャリアみたいなものは頭から外そうと思ってやりました。

撮影1週間前に「もうだめだ、僕は監督はできない!」

――
「ガール」ですが、主演の香里奈さんとかとにかく衣装がすごい。いわゆるガーリーな衣装を一体何十着持ってるんだ?という感じですね。この衣装を監督はどうやって選んだんだろうと思って(笑)。
深川:
主演の4人については、各2日間ずつ衣装合わせをしましたね。で、皆さん50着ぐらい着て。でも用意してくれてるものは100着以上あって。
――
監督が普段見ることのない衣装ばかりでしょう?
深川:
そうなんです。でもある方向性を決めるのは監督の役割なので、一生懸命考えて、普段読まない女性雑誌を読んだりして、そっちのアンテナをとがらせようと思って。それと、いろんな女性に話を聞きました。実際に「女子会」と言われる場所に行ったりもしたし。そういうことをして、じゃぁどんな映画にしたらいいかということで、女性の動物図鑑というか、いろんな女性が出てくる映画にしたら男性も楽しめるんじゃないかと。そういう感覚で前半は見せていって、どこかでドライブが止まっていく瞬間があるんです。それぞれの人に問題が発生して、そこから人間ドラマになっていく。そこからは、今まで培ってきたキャリアとか演出技術とかで、ようやく仕事を始めるという。そんな感じはありましたね。
――
まさにその通りですね。本当に最初のころは「どうなるんだろう?」と思いましたよ。
深川:
最初の5分を作るのにものすごく困りました。いろんな人の話を聞いて、スタッフと話をして、どんな美術にするのか、どんなシーンになるのか決めて行くんですけど、なかなか決まらなくて。本当に困りましたね。
――
でも確かに、途中で皆問題が出てきて、それをどうやって解決していくかというドラマの部分は安心して見られました。
深川:
それから、僕が体調を崩してしまって。「ガール」のクランクイン3週間くらい前に、そういうストレスが溜まってしまって、肺に穴が空いてしまったんです、ロケハン中に。その時、辛いスープスパゲッティを食べてたんですけど、辛いからハーホーハーホー言って食べていたら、空気が肋骨の中に抜けていくんですね。それでお店出る時に、立ち上がろうと思ったら立ち上がれなくて。結局、救急病院に行きました。肺に穴が空いてしまったので、ロケハンの間は病院に入院しながら、外出届けを出してロケハンをして、また病院に帰って来るという生活でした。それで完治したと思ったら、また空いちゃって。2回目に空いた時は撮影の1週間くらい前で、「もうだめだ、僕は監督はできない!」と思ったんですけど。でも映画って怖くて、それでも僕にやらせようという…。しかも出演者がみんな人気者なので、なかなかスケジュールをずらせなくて。結局、僕が穴空いたまま、「よーい、スタート!」って言って、3日間くらい撮影しました。その後なんとか3日間休みが取れた時に退院して、よろよろになりながら撮影現場に行った。一番の思い出はそれです。
――
それでも深川監督にやらせたいというのはすごいことですよね。普通だったら、別の監督にしようと思いますよね。
深川:
僕がもし本当に現場中に動けなくなった場合を考えて、僕の先輩の監督さんが監督代理ということで、ずっとスタンバイはしていましたね。
――
それでもプロデューサーやスタッフは深川監督でやりたかったということですよね。
深川:
僕と一緒にやるつもりで集まってくれたキャストの方もいて、僕が降りたらその人も降りるとか。スタッフも深川組だという意識がとても強かったので。だから外せなかったとプロデューサーが言ってました。
――
「この監督じゃなきゃだめだ!」とみんなが思っていたということなんでしょうね。でも、本当に完成してよかったですね。もう穴は戻ったんですか。
深川:
戻りました(笑)

2012年5月13日(日) ニューシネマワークショップにて

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